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  • 執筆者の写真Avalon

生徒数推移【2023年】


「おめでとう」などと軽々しく言うのも憚られるくらい新年早々災厄続きの日本ですが、ひとまず明けましておめでとうございます🌄


2024年も変わらず、平常時は掴みどころなくひょうひょうと、ここぞという正念場では慌てず焦らず鷹揚に構えていきたいと思っておりますので、どうぞお手柔らかによろしくお願い申し上げます。



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年末年始のお休みを使って昨年の振り返りを行っておりました。


2023年は、塾経営という観点では比較的堅調に推移致しました。


一つの指標として月別在籍生徒数の推移とその内訳を分析しましたので、ここで公開致します。 





一番多い月の生徒数が52人、一番少ない月で40人でした。


一年間を通して新規入塾は22人、退塾は16人でした。



退塾者の内訳は以下の通りです:


  • 卒業(自動退塾) 4人

  • 成績不振による転塾希望 3人

  • 成績以外での不満 5人

  • その他不可避的事情 4人


中途退塾に関しては、複数の要因が絡まりあっている場合も多いのですが、細かいところには目をつぶって、エイヤ(死語?)で仕分け致しました。


理由4つ目の不可避的事情とは、転居や不登校など、当塾の自助努力の範疇を超えたものになります。


また、理由3つ目にある成績以外での不満とは、授業体制や指導方法など、いわゆる「当初の期待値」と「実際のサービス」のミスマッチに起因するものになります。退塾理由がこれに該当する場合、入塾から3カ月~長くとも半年で辞めていかれています。


正直人間的な相性もあるので、所詮は自由意志で通う塾、無理を押して続ける必要はないと思っています。


一方で、何年間も通い続けてくれている生徒さんも数多くいらっしゃいます。


まだできて数年の当塾を信じて継続的に頼ってくださることに、感謝してもしきれません。


昨日よりも今日、今日よりも明日と、生徒の人生が少しでも良い方向に向かうよう、毎日全力でサポートさせて頂きたいと思っています。



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正月ですので、正月らしい話を一つだけ。


私が最も敬愛する人物の一人に、毛利敬親がいます。


坂本龍馬や高杉晋作などの幕末の志士と比べるとやや影が薄いので、ご存じない方も多いかも知れません。


長州藩の第十三代藩主であった敬親は、家臣からは「そうせい候」と呼ばれていました。


敬親の家臣が「この件は、このようにしてよろしゅうございますか」と聞くと、敬親は決まって即座に「うむ、そうせい」と承認するのでした。


ところが、そのすぐ後に別の家臣が正反対の案を出しても「うむ、そうせい」と返事が返ってくるではありませんか。


これには家臣たちも弱り、控えの間では「おまえの案にもそうせいという。おれの案にもそうせいと仰った。一体殿は何を考えていらっしゃるのだろうか?」というような会話が交わされたといいます。


時は幕末、激動の世です。


次第に家臣の意識が変わってきました。


「殿様がなんでも『そうせい』とおっしゃるのは、『何をやってもよい、その責任は全て私が負う』という意味ではないのか」と感じるようになったのです。


そんな家臣の気持ちを察し、家老はこう言いました。


「これからは殿にお伺いを立てるときは、必ずこの広間でみんなで討議しあおう。そして私がまとめる。いきなり殿に丸投げをしてはならない。」


もちろん、全員承知しました。




賢明な敬親のこと、家臣からお伺いを立てられた際、口には出さないものの胸中には自分なりの最善策があったに違いありません。


しかし、あえて家臣たちに「そうせい」と言うことで、家臣達に成長の機会を与えていたのではないでしょうか?


そんなそうせい候こと敬親でしたが、唯一、年に1回だけ敬親が「そうせい」と言わない日がありました。


それは、正月でした。


毎年、長州藩では、家老が「明けましておめでとうございます」という代わりに「今年はいかがいたしましょうか」と聞いたといいます。


これに対して藩主は「いや、まだよかろう」と答えます。それが「おめでとう」の意味に当たるのです。


実はこの慣習、関ヶ原の戦いの直後から長州藩で始まりました。


関ヶ原の戦いで西軍側として戦った毛利家は、所領を3分の1に削られ、その居城も萩に移され、徳川家に対し根深い敵愾心を抱いていました。


「いかがいたしましょうか」の前には「徳川家を」という言葉が隠れているのです。


慶応3(1867)年の正月、家老が「殿、今年はいかがいたしましょうか」と尋ねた時、敬親はこう言ったといわれています。


「うむ、そうせい!幕府を倒せ!」


この年、徳川慶喜はその通り政権を朝廷に返しました。これが大政奉還です。



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毛利敬親が「名君」であったかどうかは未だ判断が分かれるところです。


実際、敬親を無能な藩主だと決めつけ、藩の激動期に彼のもとを去った家臣もいたそうです。


しかし、家柄や身分に拘らず、吉田松陰や高杉晋作などの下級武士を重用したことを考えると、人を見る目は確かだったに違いありません。


周りから「あの人、何も考えてないんじゃないか?」と疑われながらも、本当に重要な時機は決して見逃さず、大英断を下すことができる、敬親のような生き方を目指したいものです。




それではみなさん、今年も頑張っていきましょう!👍





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